唐桑のこと

先日はイオンモール浜松でパフォーマンスさせて頂きました。

そこで久々にご夫婦揃ってお会いしたのがヨネさん&Kappaさん。
ヨネさんは四年前の東日本大震災の直後に「お茶っこ芸人プロジェクト」を立ち上げ、気仙沼の唐桑町の支援活動を行っていらっしゃいます。

寄付された端切れや和装小物を箱詰めするおふたり
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初めてお会いしたのはおそらく十年くらい前?ご主人のKappaさんが静岡で私のショーを気に入って下さり、地元浜松での出演の機会に奥様のヨネさんを連れて来て下さったのでした。
その後ご夫妻は今はなき渋谷「青い部屋」などにも足しげく通い始め…静岡、大須、上野、浅草…様々な場所でお会いするようになり。
大道芸やライブハウスのパフォーマンスにすっかりハマってしまったヨネさんでしたが、そこで築いたネットワークをフル活用して唐桑に定期的にお茶と芸人と端切れを届け続けて早四年。(端切れは手芸材料です。)

私がお茶っこ芸人プロジェクトに参加したのは2012年の12月のことでした。
実は私はこの時のことを何度か書こうとしては挫折していました。
あの時に見たもの、感じたことはあまりに大きくて、大きくて、大きくて、言葉にしようとすると、捉えようとすると捉えられて飲み込まれてしまうようなのでした。
ここに、去年の3月11日に書いたものがあります。

三月十一日に寄せて

携帯で三月、と打つと、三日、と並んで十一日、と予測変換が出ることに気付きました。
それほどまでに刻み込まれている日付け。それ以前と以後に、くっきりと線が引かれてしまった時間の切れ目。
あれから何度か、津波や原発事故の被害に遭った東北の町を訪れました。
今日はそのうちのひとつ、唐桑半島でのお話。

2012年12月、私は「お茶っこ芸人プロジェクト」という企画で唐桑半島に向かった。
「お茶っこ芸人プロジェクト」の主催者は米原小百合さん(通称ヨネさん)。震災直後から定期的にボランティアスタッフ、パフォーマーと共に唐桑を訪問し続けていらっしゃる方。
主宰ヨネさん、強力助っ人マチルダと共に早朝東京を出発し乗り換えること十回。道中スタッフ敦子さん、寅くん、お菓子研究家きみえさん夫妻が合流し、一関、気仙沼を経て拠点となる唐桑ユースホステルに着いたのは夜の九時を回る頃だった。
海の気配はすれど辺りは真っ暗。
宿の食堂に掛けられた大漁旗の前にはヨネさんときみえさんが送った大量の段ボール箱が積み上がっている。
ヨネさんの段ボールには支援者の方から送られた大量の端切れ、毛糸などの手芸材料。
きみえさんの段ボールにはきみえさん&マチルダ作のカップケーキに色とりどりのデコレーション材料。
私が送った大きなトランクの中にはラビットにピエール、ドレスにバルーン。
全員総出で仕分けや準備を終え、波の音を聴きながら眠りについた。

早朝、低く長い唸り声のような音で全員が飛び起きる。

初めて聴く地鳴りの音だった。

まさしく地中深くから迫って来るような、不気味な音。
揺れは小さかったものの、到底太刀打ち出来ない自然の恐ろしさの一端に触れ、ここに住む人たちは幾度となくこの何十倍、何百倍の恐怖に晒されたのだと思うと余りの途方もなさに言葉もなく。
朝日がのぼり、部屋の窓から見下ろした海はその恐怖とは裏腹に穏やかに輝いていました。

車で宿を出発し、これから向かう仮設住宅に住む方々の住んでいた地区を回る。

海からの距離に比例しない津波の跡。手前の家は残っているのにその奥は全て流されている。
長い長い幾本もの腕が海から伸びて来たかのように、水の跡は海から遠く離れた場所にまでくっきりと残っていた。

復活したばかりの牡蠣小屋。
移転候補地がやっと決まって工事を始めたら遺跡が出てきちゃって工事がストップしている、という高台。

午前の会場である小原木小学校仮設住宅に到着。こちらは六畳間に台所の付いた、小さな集会室。
ちゃぶ台を寄せて片側に演技スペースを作り、反対側にお菓子のデコレーションコーナーを配置。
準備中にも三々五々住人の方々が訪ねて来ては楽しそうに端切れを選んでゆく。
そのうちの幾人かが残って下さった。

寅ちゃんとラスボスヨネさん。唐桑ユースホステル前にて。
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やっと続きを書きます。

このころはお茶っこ芸人の催しに足を運んで下さる方の殆どは端切れが目的で、そのまま帰ってしまう方も多かった。
(今は大分変わって来ているようです)
この日は2、3人のご婦人が残り、集会室に上がって下さった。
クリスマス直前だったのできみえさん&マチルダが焼いたカップケーキに手作りのデコレーション材料で皆さんにケーキを飾ってもらおう、という主旨だったのだがみなさんシャイで、なかなかケーキデコレーションには手が伸びない。
マチルダが会話の糸口を探りつつデコレーションを薦める。
お茶を飲みながらケーキを飾りながらお互いの緊張がすこーしほどけてきたところで、バーバラビットの出番。

当初はさすがに六畳間の片隅でいつもの長さのショーをやるのは無理だと思い、場の状況を見てやれることをやろうと思っていた。
六畳間を出て台所でラビットになる。音楽をかける。
大きなトランクを抱えて六畳間にラビット登場。みなさんの目がまんまるくなった。

気付いたらラビットの物語が終わっていた。
一番前にいた、とってもシャイなお婆さまが目を細めて手を叩いていた。

午後は小原木中学校集会室へ。
こちらで地元のお母さん方が作って下さったお昼ご飯をたらふく頂く。
食べながら津波が来た時の話を聞いた。
あの日、高台に避難して、翌日戻ったら辺り一帯、何もなくなっていたこと。
「後ろ向いても何にもないから。ぜーんぶ流されちゃったから。前を向くしかないんだ。」
と言った。
ご飯は本当においしかった。地元でとれたわかめや野菜や魚を使った地元の普通のごはん。
薦められるがままに食べていたら全員おなかがはちきれそうになった。
寅ちゃんとマチルダは最早起き上がれなくなっていた。
私はかなりセーブしていたつもりがコルセットが締まらなく…なりそうになりましたが何とか締め上げて、お茶っこ午後の部スタート。

こちらの集会室はかなり広く、20人程の方が集まって下さっただろうか。
小さい子も大きい子もお母さんもおばあさんもおじいさんも集まって賑やかな雰囲気。
デコレーションコーナーも盛況。
子どもたちがデコレーションしたカップケーキをお母さんが「高台移転ー!」と言いながら高い所に乗せて笑い合っていたのが印象的だった。

デコレーションの一例。
デコレーションの一例。かいじゅうたちのすむところ。

そしてショータイム。今度はひろびろと。
終演後、皆さんがデコレーションしたカップケーキを手に手に帰る頃、一人やって来た漁師のお父さんがお茶を飲みながらぽつりぽつりと昔の漁の話をし始めた。
お父さんの話は東北なまりが強くて、みんな耳を凝らして頷きながら聴き入ったけれど半分以上分からなかった。
お茶っこ一行の中で唯一の東北人、青森在住の敦子さんはきっと分かっているんだろうと思い後から訊いてみたけれど、「実は私も全っ然分からなかった!」と言われてたまげた。そんなにも違うものなのか。
内容は朧げだけれども、あのときお父さんの話から伝わって来た海や、空や、船や、漁の質感のようなものは今でも強く残っている。

この日は衆院選前日だった。
ホステルに戻り翌日の準備を終えた後みんなでこたつで、夜遅くまで話していた。
政治のこと、選挙のこと、歴史のこと、教育のこと。十代から五十代まで、様々な立場と職業の人間が今、感じていることを真摯に話していた。これから起こることへの、不安と希望。震災後初めての衆院選前夜。

翌日は障害者施設、高松園さんへ。
大きな教室にいっぱいのお客様が待っていてくださり、大盛況のうちにお茶っこ最後のショーが終わった。

帰京の途につく前に、きみえさんご夫妻、マチルダと共に唐桑半島の名所・折石へ。
三陸大津波の際に先端が2m折れたという大理石の柱はそれでもなお16mの高さで険しい岩場にすっくと聳えていた。
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海は静かだった。
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みんな無言で、それぞれに海を見ながら長く長く手を合わせていた。
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折石のすぐそばの高台にあるドライブイン、海岸亭で食事。牡蠣フライに生牡蠣に牡蠣ラーメンの牡蠣尽くし。牡蠣小屋が再建されて育ち始めたばかりの牡蠣はまだ小さいけれど味が濃く、海の香りをたっぷりと含んでいた。
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こちらの海岸亭は震災後長らくボランティアの拠点として宴会場を提供し続け、ご主人は屋台を引いて避難所でラーメンを作り続けたそうだ。
この後海岸亭はボランティアや観光客の激減でやむなく移転、移転後の店舗も今年の始めに閉店したと聞いた。
もう、あのラーメンは食べられない。

ヨネさんからは毎月お茶っこ通信が届く。

 

 

 

震災後、たくさんのボランティアでのパフォーマンス派遣事業が立ち上がり、私の所にもたくさんのお誘いを頂きました。

私にも生活があり、全ての依頼を受けることは出来ませんし、全てを受けることがよいこととも思えませんでした。

受けてみたものの疑問の残る終わり方をしたものもありました。
迷いながら、悩みながら選ばざるを得ない中、決して条件がいいとは言えなかったヨネさんのお茶っこ芸人プロジェクトに参加することを決めたのは、一言で言えばこの人のやっていることならば信用出来ると思ったからでした。
行動的で、キャラが濃くて、なんなら時にはこちらが引いてしまうくらい押しが強いこの人に押されつつも話しあってゆく中で感じたのはとてもシンプルな信念でした。
行きたいから行く。会いたいから行く。見せたいから、連れて行く。

あの頃あんなにたくさんあったパフォーマンス派遣事業は年々少なくなり、今も継続的に行われているものはほんのわずかです。

当初「1年か2年…自分のお金が続くまで。」と言っていたお茶っこは少しずつ支援者も増え、今年で四年目になるようです。

長く関わり続けることによって出会わざるを得ないやるせなさや悲しさも全部飲み込んで、家族も巻き込んで、素敵な芸人をハントして、ヨネさんは今月も唐桑に会いに出かけてゆきます。

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